『古武道現代用語辞典』

五十年以上に渡って、二天一流剣術、柔術他、様々な流派の古武道を指導してきた諸井正毅先生が極めた奥義を簡潔にまとめた著書です。 

簡単にその内容をここで紹介します。

 

【合気】

一般的に合気道の「あいき」と読むが、武道家としては、「ごうき」と読む方が正しいと思われる。

大東流柔術の師範だった竹田惣角は、死ぬ間際に「合気(ごうき)とは、一瞬に爆発する力だ」と言い残した。

真剣勝負の場において必要なのは相手と気を合わせる事ではない。一瞬の爆発する力によって相手を倒すことである。生死を分ける場においては、問題は勝つかどうかである。

 

 【相抜け】

技量が互角の者が打ち合った場合、相打ちになると思われているが、この相抜けこそが究極の境地である。

無住心剣流の始祖、針ケ谷夕雲は、生涯に五十二回の真剣勝負に臨み、一度も負けを知らなかったという剣豪であるが、四十才を過ぎて参禅するようになり、ある時豁然と悟った極意が「相抜け」だと言われている。単なる「引き分け」ではない、勝負やわざの優劣を超え、天に身をゆだねる無我の境地を言うのだろう。

互いに極意にいたった達人同士の時に起こるものである。

我々凡人には相打ちしかないように思えても、相打ちを覚悟して「人生の試合」に臨む時、その先に「相抜け」の境地があるとしることは、大きな救いになるに違いない。

 

【歩み足】

 歩み足とは、左右の足を交互に出して歩く普通の歩き方だが、現代の剣道では、爪先立ちで歩み足をする。だが古武道ではべた足である。

平たい板の間(道場)で立ち合うのではなく、例えば足場の悪い砂利道などでの真剣勝負となったらどうか。爪先立ちですっすと歩み足など出来るわけがない。しかも爪先立ちでは、竹刀ならともかく、重い真剣を振り回せるはずがない。

現代剣道が爪先立つのは、あくまで動きやすくするためだ。

古武道ではべた足できちっと大地を踏みしめる。

べた足で居付かないようにするにはどうしたらいいのか?(「居付き」については後述)

古武道では、踵のかわりに、膝にクッションを持たせる事で、自由自在に動けるようにする。

スキー選手のように踵をしっかりと板につけ、膝のクッション一つで激しい動きを生み出す。

踵がしっかり板についていると強い風圧がかかっても倒れないのである。

 

【居合】

抜刀(ばっとう)と言わず、なぜ居合というのか?

そもそも居合とは、偶然に敵と間の中に居合わせてしまった時に、どう刀を抜いて相手に対応するか、その技術をいうのである。

敵と対する時、一間(約1.8メートル)の間の中に入ってしまうと普通なら勝負は決している。その間の中でいかに刀を素早く抜き身にするか、つまりいかに鞘から刀身を出すかという、その鞘の払い方が勝負の分かれ目になるのだ。

鞘走りというがごとく、鞘を払うことですぐ抜き身にするのである。

居合はこの鞘の払い方によって勝負を決すると言っても過言ではない。

また、勝負は鞘の内にあり、と言われる所以でもある。現代では一人で居合を行うことが多いようだが、段々と本質から外れてきているように思われる。

 

 

 

 

 

 


『一眼二足三胆四力』

真剣勝負の場で不可欠の要素を順序立てて述べている。

一番に必要なのが目付けであり、次に足さばき。

「目」で言えば、「遠山の目付け」という言葉がある。つまり、立ち合った際に遠い山を見るように全体を捉える目つきをすれば、相手が足の指一本動かしてもわかるということである。

真剣勝負なのだから当然、相当の胆力が必要になる。自分を決する覚悟が要求される。これは現代で言えば、たぶん自己責任という言葉が近いだろう。あらゆる不運、不幸を人や周りのせいにせず、自己責任と断じる生き方をしないかぎり、自分を決する覚悟など出来るわけがない。

それこそが武士道の根幹なのである。

そして最後に、日頃の鍛錬がものをいう力(技術)。

「心」を鍛える必要があるなら、「肉体」もまた然り。「心」と「肉体」を意識的に鍛えようとせず、ただ「知識」を溜め込んでいる人間はぶざまである。

ここではっきりしているのは、この項で述べた順番には意味が無いという事である。

眼、足、胆、力のそれぞれがどれひとつ欠けることなく渾然一体となって初めて真剣勝負(人生)の場で願わしい結果を手にする事が出来るのだ。

 

 

【居付き】

一般的に合気道の「あいき」と読むが、武道家としては、「ごうき」と読む方が正しいと思われる。

大東流柔術の師範だった竹田惣角は、死ぬ間際に「合気(ごうき)とは、一瞬に爆発する力だ」と言い残した。

真剣勝負の場において必要なのは相手と気を合わせる事ではない。一瞬の爆発する力によって相手を倒すことである。生死を分ける場においては、問題は勝つかどうかである。

 

 【相抜け】

技量が互角の者が打ち合った場合、相打ちになると思われているが、この相抜けこそが究極の境地である。

無住心剣流の始祖、針ケ谷夕雲は、生涯に五十二回の真剣勝負に臨み、一度も負けを知らなかったという剣豪であるが、四十才を過ぎて参禅するようになり、ある時豁然と悟った極意が「相抜け」だと言われている。単なる「引き分け」ではない、勝負やわざの優劣を超え、天に身をゆだねる無我の境地を言うのだろう。

互いに極意にいたった達人同士の時に起こるものである。

我々凡人には相打ちしかないように思えても、相打ちを覚悟して「人生の試合」に臨む時、その先に「相抜け」の境地があるとしることは、大きな救いになるに違いない。

 

【歩み足】

 歩み足とは、左右の足を交互に出して歩く普通の歩き方だが、現代の剣道では、爪先立ちで歩み足をする。だが古武道ではべた足である。

平たい板の間(道場)で立ち合うのではなく、例えば足場の悪い砂利道などでの真剣勝負となったらどうか。爪先立ちですっすと歩み足など出来るわけがない。しかも爪先立ちでは、竹刀ならともかく、重い真剣を振り回せるはずがない。

現代剣道が爪先立つのは、あくまで動きやすくするためだ。

古武道ではべた足できちっと大地を踏みしめる。

べた足で居付かないようにするにはどうしたらいいのか?(「居付き」については後述)

古武道では、踵のかわりに、膝にクッションを持たせる事で、自由自在に動けるようにする。

スキー選手のように踵をしっかりと板につけ、膝のクッション一つで激しい動きを生み出す。

踵がしっかり板についていると強い風圧がかかっても倒れないのである。

 

【居合】

抜刀(ばっとう)と言わず、なぜ居合というのか?

そもそも居合とは、偶然に敵と間の中に居合わせてしまった時に、どう刀を抜いて相手に対応するか、その技術をいうのである。

敵と対する時、一間(約1.8メートル)の間の中に入ってしまうと普通なら勝負は決している。その間の中でいかに刀を素早く抜き身にするか、つまりいかに鞘から刀身を出すかという、その鞘の払い方が勝負の分かれ目になるのだ。

鞘走りというがごとく、鞘を払うことですぐ抜き身にするのである。

居合はこの鞘の払い方によって勝負を決すると言っても過言ではない。

また、勝負は鞘の内にあり、と言われる所以でもある。現代では一人で居合を行うことが多いようだが、段々と本質から外れてきているように思われる。